働く理由。口実コミットと心の底からのコミット。
小さい頃から人が働く理由についてよく考えることがある。
「食っていく為に働く」、だとか「お金を稼ぐ為に働く」だとか。
これを読んでいる人も、多かれ少なかれ考えたことがあるのではないだろうか。
人が働く理由。
「誰かの役に立つ為に人は働くんだ」
とか
「お金を稼ぐために人は働くんだ」
などなど。
良くも悪くもこんな、それらしい回答になる人も多いだろう。
かく言う俺も小学3年生の頃にこの理由についてを考え、
「人は生きる為に働いているんだな」
という結論に達した。
そういう結論に至ったのも、
何の為に働く?→お金をもらうため
何でお金が必要?→食べ物を買うため
何故食べ物を買う必要がある?→生きるため
という3回の自問を経た結果である。
至ってシンプルな結論だったが、この考えがつい最近までの自分の仕事観を形作っていた。
小学校3年から大学4年まで、
「人は生きる為に働く」
と思っていたのである。
実にそれっぽい理由だ。
しかしここ1年間、ツイッターでいろんな人の仕事観に触れる機会が増え
「どうやら人は誰か価値を提供する為に働いているっぽい」
という考えに変わった。
価値観を書き換えられた。
ツイッターって凄い。
まぁそんなこんなで、今の仕事観は
「人は誰かに価値を提供するために働いている」
になっている。
厳密にこの仕事観も掘り下げていくと
何故価値提供をする為に働く?→誰かを喜ばせるため
何故誰かを喜ばせる必要がある?→喜ばせる=幸せにするだから
何故幸せにする必要がある?→人を幸せにすることで自分も幸せになれるから
なぜ自分も幸せになれる?→実際にそう感じるから
という感じになる訳だけども、
じゃあ今あなたがやっている仕事はそれを満たしていますか?と聞かれると、YES!!とは即答できないような業務も多いのが現状である。
まぁ入社してからまだ1カ月も経ってないから、意味不明な作業が多いのはしょうがないのだけども、流石にダラダラとした雰囲気の会議に出席することや、承認を得るための承認の得かた、なんてものを勉強するのは何だか流石に馬鹿らしく感じてしまう。
日々「仕事やってる実感」がない状態というのは地味につらい。
恐らく
「人は誰かに価値を提供するために働いている」
という考え方が身に付いていなかったら、
「今日も仕事やったわ」
なんて呑気な事をきっと言っていただろう。
勤務時間の分だけ自分は仕事をした、と錯覚したまま過ごすことになっていたかもしれない。
新しい仕事観を手に入れてしまったが為に、「仕事をやっている実感」がない状態になっている。
嬉しい悲鳴である。
だけど、今の自分が誰にも価値提供を出来ていない、という事を客観的に知ることができている時点で運がよいのかもしれない。
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{日々「仕事やってる実感」がない状態というのは地味につらい。}
と先ほどの行で書いた。
このことから言えることは、人間は何かに打ち込めていない状態、コミットできていない状態になるとモヤモヤを感じるのかもしれない、ということだ。
そういう意味では「勤務時間分の仕事をした」という考え方は、このモヤモヤの解消と非常に相性が良いのかもしれない。
だって、「今日も仕事を頑張ったぞ」
という口実ができるから。
自分は仕事にコミットしている、と自分を納得させられるから。
もしかしたら人は、このモヤモヤから逃れる為に、自然と自分を納得させているのかもしれない。
「大丈夫、自分は打ち込める物をちゃんと持っている」
そう自分に言い聞かせる為に仕事をする。
ダラダラと残業をする。
無駄な人付き合いをする。
自分を納得させるために。
モヤモヤに蓋をするために。
人間は暇に耐えられない生き物である。
暇を恐れている生き物である。
だから常に何かに時間を配分しないと気が済まない。
結論
若いうちに、口実としてコミットできるものではなく、心の底からコミットできるものに出会う必要性がある。
きっと毎月いくら稼いだとしても、口実としてコミットしただけだったら虚しさしか残らない。
心を満たし、人生を支えてくれるのは、心の底からコミットできるものだけなのかもしれない。
知らんけど。
終わり
(所要時間:およそ2時間)