怠惰撲滅ブログ

怠惰な筆者が勤勉になるまで

それは本当にあなたの幸せなのか

「幸せになる勇気」を読もうと思うので、あらかじめ幸せについてをこのブログでアウトプットしておき、読むときの材料にしようと思います。

 

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人は幸せになる為に生きている。

 

不幸になる為に生きている人などいない。

 

当たり前だ。

 

 

幸せを感じる瞬間というのは人によって様々で、

 

・毎日美味しいものを食べることに幸せを感じる

・自分が主体的に動いて人を動かしている瞬間に幸せを感じる

・好きな人とデートをした瞬間に幸せを感じる

・ふかふかの布団で寝る瞬間に幸せを感じる

etc....

 

などなど、例を挙げれば枚挙にいとまがない。

というか当然幸せに決まった型というものは存在しないので、例を挙げようとする行為自体、無粋かもしれない。

とにかく幸せは個人個人の価値観と結びついているものなので、浅いところで共通の幸せがあっても、深いところまで掘り下げると必ず個々人のオリジナルの幸せがある。

 

たとえ、

「○○した瞬間って幸せなんだよねー」

「分かる~!!」

 

なんて会話をしたとしても、意気投合したとしても、理想としている幸せが完璧に一致していることはまずない。

あり得ない。

生きている年数が多ければ尚更だ。

違う環境で育ち、違う価値観を身に着け、違う生活をしていた人間同士の幸せへの価値観が完璧に一致することなんてあり得ないのである。

 

つまり何が言いたいのかと言うと、人は各々の幸せを完璧に理解し合うことが出来ないのである。

たとえ雰囲気に共感しても、理解にまでは及ばない。

 

 

 

ここまで長い前提を書いたけども、ようやくここで本題。

 

他人が提唱している幸せ論に賛同するのは良いが、それを自分の幸せ論に上書きしてはいけない。

 

ツイッターでよく見かける

「ゆるふわハイスぺ」「青雲の志」「好きなことで生きる」などなど。

 

これらを自分の目指す幸せだと思わない方が良い。

隣の芝は青く見えるではないが、他の人が言っていると何だかよく見えるのだ。

 

気付いてほしい。

提唱している本人達が自分でその言葉を見つけたことに。

気付いてほしい。

本人たちは一番しっくり来る言葉を、探す、選ぶ、作る、などの過程を経て使っているということに。

 

だから、良さそうなものを取って付けて真似るだけでは駄目だ。

自分で自分に一番しっくりくる言葉を見つけるからこそ、言葉にはエネルギーが宿る。

 

 他人が見つけた言葉を使うことに何の意味があるのだろうか。

 

 

 

どんな言葉でもいい。

まずは他人の言葉ではなく、自分の言葉で幸せを定義してみよう。

 

自分の人生、どんな時に楽しくて、嬉しくて、幸せだったか。

記憶のある所まで全て思い出してみよう。

 

きっとそこに、今後の自分の人生を幸せに導くヒントが眠っている。

 

 

終わり

(所要時間80分くらい)