怠惰撲滅奮闘記①
ダラダラと色々書く。
読者、ターゲットは特に決めていない。
文脈も適当である。
今日の出来事とそれについての連想
2017年11月21日。
今日も怠惰だった。
朝の11時に起床し、内定先の企業の人と1時間電話で事務連絡をしたところまでは良かった(というか普通だ)。
しかしそこからが、まるで駄目だった。
2時間のユーチューブを見た。
3時間昼寝をしてしまった。
起床後もダラダラやネットサーフィンという雑多な時間を過ごしてしまった。
しかしここで自分に対して言い訳が始まる。
今日の俺「その時その時の自分が欲していたものに手を出していたから、満足度は高い。だから今日やっていたことは間違いではなかったんだ」
と。
本当にそうだろうか?
いつもの俺「その時その時で本当にやりたいことをやっているなら別何やってもいい気がする」
その通りだけど、本当にやりたいことをやれているのだろうか?
たまに湧き出る俺「後悔するのは良くない。だから自分の行動に後悔はしないことにした。自分の行動をずっと肯定し続ける。そうすれば後悔せずに死ねるはずだ」
もし死ぬ直前で、今までの肯定が間違いだったと気が付いたらどうするのか?
いつもの俺「どうせ人生死ぬまでの暇つぶしだし、どう転んでも問題ないわ。死ぬとき後悔しながら死んでも死んだら変わらんやん。不幸になっても幸せになっても同じ」
普段は飯食いたいとか、寝たいとか、セックスしたいとか考えているのに、何故生死を考えるときだけ達観した気になっているのか?
、、、、、
考えている内に自分への言い訳が、ただの現実逃避に過ぎない、ということが分かった。
というか気づいてはいた。
そもそも中学生の頃から現実逃避をしている自覚があった。
(テストを勉強をせずに前夜にゲーム、いつもギリギリに手を付ける課題、途中でやめてしまう勉強、約束を破る等)
そしてその言い訳を自分へ言い聞かせ、現実逃避だと知っていながら行動を改めない自分が、いかに薄っぺらい存在か分かっていた。
そう、薄っぺらいのだ。
直すべきだと分かっていながら、直さない。
まさに怠惰の極み。
「貴方は何をやっている人なの?」
と質問された時、どんな答えが口から出るだろうか。
俺はいつも自分の答えにどこか物足りなさ、モヤモヤを感じる。
「今独立目指しててー」
いやお前昨日スプラトゥーンやってたじゃん。
「ライターをやっててー」
全然始めたばっかりじゃん。
「ブログ書いててー」
毎日書いてねーじゃん。
「卒業研究しててー」
お前ようやく材料揃えただけじゃん。
「毎朝掃除しててー」
いつの話だ。
「毎日ツイキャス配信しています」
嘘は良くない。
「これだけは本気でやり続けている。」
と言えるものが出てこない。
いつも途中で頓挫してしまうからだ。
だからと言って正直にそれを話して、相手を困らせても仕方がない。
別に何かに打ち込んで長くやっていれば良いって訳じゃないけど、言えるものがないと、自分の中の自分の存在感でさえ薄れてしまう。
自分とあの人とあの人を並べて、どの人が一番面白いかなぁと考えて、その時自分を指させないのは悲しくないだろうか。
こいつと言えばこれ、というラベルが自分には張られていない気がしてしまう。
だから何か専門分野をもって、それについて熱く発信する人には強く憧れる。
ラベル貼ってあるなぁ、となる。
ちゃんと考えれば、自分にも何かしらはあるとは思う。
でもどれも微妙で胸を張って言えるレベルではない。
でも、
ラベルの作り方は知っている。
毎日同じテーマについて情報発信すること。
初対面の人に、
「あなたがなっすさんか、朝掃除頑張ってるね」
と言われたことが3回ある。
ごめん嘘ついた。
2回である。
でも、少なくても2人が俺にラベルを張ってくれた。
嬉しかった。
自分を何者か少しでも認識してくれることは嬉しいものだった。
少なくとも、何か一つのテーマを発信し続けるということが、自分を認識してもらうための最低条件な気がする。
分かっていながらやらない怠惰野郎だけども。
怠惰を直したいと願うだけなら簡単だ。
いざ行動に移して、自分を本当に変えるのは相当骨が折れる。
生半可な気持ちでは達成できない。
住む場所、人間関係、無駄な物の徹底排除など、変え難いものまでも変える必要がでてくるだろう。
覚悟を決めることも必要か。
この怠惰な性格が直ったら、心の底から人生を楽しめるのだろうか。
確かに言えるのは、今の自分に対してモヤモヤを抱いていることだ。
もしかしたら怠惰でも幸せになることが出来るかもしれない。
それが約束されているなら怠惰で居続けることも容易だ。
でも圧倒的に、勤勉であることの方が幸せになれる可能性が高いと思う。
勤勉な人には可能性しか感じない。
だからこそ怠惰である自分の存在が薄く感じるし、モヤモヤがおさまらないのだ。
最近思っていること
アウトプットの重要性がよく語られているけど、アウトプットってあくまで手段なんだよね。
別にアウトプットを目的として生きている訳ではない。
アウトプットがもたらす結果が、目的なのであって。
確かに、普段からツイッターやブログでアウトプットすると、アウトプットの質が上がって、それに付随して結果の質も上がる。
でも、無駄なアウトプットもある。
それはアウトプットの為のアウトプット。
最終目標がアウトプットなら、それは目標設定が間違っている。
「アウトプットが楽しいから、アウトプットすることを目的として生きています」
という人もいるかもしれないけど、それは変態だ。
それは
「誰にも見せる予定のない日記を書くことを生きがいにしています」
「誰にも聞かせる予定がない歌の練習を繰り返すのが生きがいです」
といっているようなものだ。
大抵の人はアウトプットに伴う周りからの反応が楽しい嬉しいから、アウトプットをしているはずだ。
自分の声が届いているかどうか分からない状況の場所に一生アウトプットし続けられる訳がない。
もしかしたら自分の声が届いているかもしれないが、確証はないし、それを確認するすべがない場所という設定である。
自分の声が届いていて、何かに結果をもたらしたことを確認できる可能性があるからこそアウトプットしている。
植物人間に毎日話しかける人も、自分の語り掛けがこの人を植物状態から抜け出させる助けになるかもしれない、という可能性があるからできることであって。
死人に語り掛け続けるような人はいない。
結局何が言いたいのかというと、アウトプットが目標になっていたら目標設定がずれているということ。
何かアウトプットがもたらす結果が欲しいから、人はアウトプットをする。
人間の根底には人と関りたいという欲求があるらしい。
結局、自分ひとりの為だけに生き続けるには、辛い世界である。
何か他の人と関りを持つことでしか、生きがいは作れない。
だからアウトプットも、人に何か影響の与えるのもが望ましい。
例えば、「この歌を聞いた人が元気なればいいな」と思いながら歌う歌とか。
「これを読んだ人が怠惰を直せるといいな」と思いながら書く文章とか。
このブログもできれば、誰かの怠惰を直すきっかけや助けになって欲しいと思って書いている。
読んだ、面白かった、新しい気付きを得た、つまらない、痛い文章だ、
とか、何か人に思わすことが出来たらそれが第一歩。
行動を変えることができたら、それは目的を達成できている状況。
人の行動を変える文章を書く、というのは非常に難しい。
俺はTwitterが大好きだ。自分のツイートに対していいねやコメントが付くと脳汁がでる。
うひょおおお!
でも、気が付いたらその反応を貰うことが目的になっていたりする。
間違ってはいない。
でもいいねの為に書く文章が本当に面白いだろうか。
面白い人には面白いと思う。
けど俺は微妙な気がする。
ブログで稼ぐためのブログ、情報商材を売るための情報商材、コンサルをするためのコンサルタントと同じ匂いがする。
フィーリングとして好きくない。
これは感覚の問題だけども。
結局、人の行動を変えたい!という強い目標があるアウトプットの方が自然と面白くなっていたりする。
勝手な想像でしかないけども。
Twitterの好きなところは、刺激がたっぷりあること。
というかインターネット自体がそういう性質をもっている。
知らない情報が際限なく脳内に流れ込む。
一種の麻薬。
辞められない止まらない。
気付けば、一日の内10回はTwitterを開いていることもあった。
中毒である。
それが一年続いた。
今もまだ続いているようなものだけども、ここ数日ようやくそれを抑制する手段を試した。
すると、一日のTwitterの占める時間が半分以下に減った。
Twitterへのアクセスのハードルを上げた。
目的はいいねを貰うことが目的と化したアウトプットを撲滅するため。
タイムラインが自分を変えてくれるという幻想や、無駄な時間を消し去るため。
一年近く、この意識の高い界隈を眺めてきたが、自分の成長はあまり感じられない。
アウトプット量が少ないからだと思われそうだけども、いいねを貰うことが目的と化した瞬間に、自分の成長が止まる気がする。
やっぱり、良いツイートは、その人の日常生活の充実失くして実現しない。
それに気が付いた。
何か呟こうと思ってする呟きは、つまらない。
日常生活の中から、これを伝えたいと思えることが、Twitterにも自然とあふれ出ている人が面白い。
これも勝手な想像。
でもそんなイメージが強い。
俺の日常生活からはそんなものが溢れている気がしない。
探せばあるかもしれない。
けど、たぶんそれは絞りカスな可能性が高い。
何せ、怠惰で、リアルでも中途半端なことが多いから。
芯をもって取り組んだことを発すると、ツイートの威力が増す気がする。
コップからあふれる水のようなツイートが面白い。
コップを逆さにして出す水のようなツイートは面白くない。
探して取り出したもの、無理やり絞り出したのは、バレる気がする。
「えっと、えっと(ガサガサ)あったあった!へへっ、これなんてどうだい?え、いらない?(焦り)んじゃこれは!?」
という、人の気を引くために媚びへつらう、インチキ商人みたいだ。
雰囲気が伝わってくる。
そんなものよりも、
「あ、やばい(ボトっ)、あーあ、一人じゃ持ちきれないや、貰ってくれない?」
と、自然と渡してくるものの方が面白そうだし、ハンサム王子だ。歯が白くて、白馬に乗っている。ナイスガイ。
商人はゴブリンのような見た目で、薄汚れた服を着ている。臭い。
自分でも何を言っているかよく分からない。
決意ツイートは持たざる者達が誰しも使う、便利ツイートだ。
薄っぺらい自分を変えたいが為に、発する。
つまり、それ以外に言うことが見つからないのだ。
全然悪いことではない。
それを見た同士を奮い立てるきっかけになるかもしれない。
しかし、そればかりを繰り返すと、非常に面白みに欠けるという欠点がある。
このブログでも、Twitterでも、俺は何か人の行動を変えるほどの内容を発信したいと思っている。
けど、行動を変えるための発信をしても、当の自分の行動が変わっていないのだから、信憑性に欠けてしまう。
何を言うかより、誰が言うか。
が大切だと思い知る。
人の行動を変えたいなら、自分の行動からまず変える必要がある。
自分で実験してみて、それで成功したら、他人にもシェアする。
正直今まで、色々時間配分とか、予定の立て方とか、偉そうに記事を書いてきたけど、俺自身それを実行できていないことが多々ある。
それは発信者としてどうなんだろうか。
出来なきゃ言っちゃ駄目、という訳ではないけど、できていないと記事の信憑性は大暴落する。
誰が言うか、である。
出来ている人が言わないと、効力を発揮しない。
だから自分のリアルの行動を改善できないと、情報発信者としての信頼が落ちる。
リアルを充実させることまでが情報発信する上で大切。
リアルが充実していない状況から、リアルが充実し始めるまでを、逐一発信するのも価値提供につながると思う。
そういやオナ禁が70日を超えた。
我ながら、よく耐えたと思う。
ここまでくると、一生オナニー禁止も目ではない。
眠りが深くなったのは、気のせいだろうか。
性欲が減った分、睡眠欲が増えている気がする。
惰性でダラダラ書いていたら、深夜になっているし、意味不明な文脈で書きなぐっているし、まとめようのない内容になってしまった。
記事としては糞クオリティー。
正直こんな記事を書いてもしょうもないと思う。
けど明日以降の自分へのプレゼントになればいいな。
何も書かないよりはきっとマシだからね。
終わり