怠惰撲滅ブログ

怠惰な筆者が勤勉になるまで

ただ人と会う人間、会ったらセールスをする人間。

メモ日記。

 

最近はよくいろんな人と会う。

 

主に、人材紹介で生計を立てている人間だったり、MLMをやっている人間だったり、投資商品の営業をやっている人間だったり、いわゆる会社勤め以外の形態で稼いでいる人間と会う事が多い。

いわゆるサラリーマンではなく、ビジネスマンという人種だ。

 

会ったビジネスマン全員に共通しているのは、人に会うという行為を、会うだけに留まらせない点である。

皆、自分の商材や、紹介先を持っており、売り込みや勧誘、人材紹介に繋げようとしている。

 

今までの自分は会うという行為に対して、「交流または情報を共有する機会」という程度の認識しかなかった。

具体的に言えば、「友達になるため」「情報交換のため」「面白そうだから」

という認識だった。

 

だが自分の商品を持っている人間にとって、会うという行為の中には、

「セールス」が含まれている。

ここが自分と、ビジネスマン達との明確な違いだった。

 

 

会って会話して、情報を交換するだけの人間。

会って会話をして相手に商品を提案、売り込みする人間。

 

前者の人間は人と会ってもお金が動くことはない。

後者の人間は人と会うと、何かしらのお金の動きが生じる。

 

この違いを一言で言うならば、

”資本を動かしているかどうか”

の違いである。

 

資本を動かすことができるかどうか = 自分でビジネスをできるかどうか

 

とも言える。

 

この資本を動かすという部分に特化した仕事のことを、営業という。

 

自分が売る人間になるか、売られる人間になるかは、この意識の違いで決まる。

人生の早い段階で両方を経験しないと、一生売られる側の人間で終わってしまうのかなぁ、なんて思う。

 

売れる商品を持っていなくても、

「俺の商品を売ってくれる人間が欲しい!」

という人は世の中に沢山いるので、そういう人の商品を代わりに売ってあげて、報酬を貰うという方法でも良いだろう。

 

独立するには自分で売れる商品やサービスを作らないと駄目だ!

なんて考えていたけども、売るという部分を請け負ってその報酬で食っていくという手段もありだな。

 

最近聞いた話で、営業力を極めてから自分の商品を作って売り始める人間もいるらしい。

でも確かに、どんなに良いものを作れたとしても、売ることができなければ存在していないのと同義なので、売るという行為そのものに価値があるのも納得できる。

 

間違いなく言えるのは、一度売る側の人間にならないと、世の中のありとあらゆるサービスや商品を、盲目的に買うだけの人間になってしまうという事。

売る人間の思惑と言うのを知っておかないと、一生カモにされ続けるだろう。

 

世の中には売る側と売られる側の人間がいる。

勿論、極端にセールスを跳ねのける必要はないが、セールスをされた時に考慮できる切り口は多いに越したことはない。

 

買うなら、買う理由を明確に。

自分が相手に教育をされて買ったという自覚を持つこと。

 

買わないなら、買わない理由を明確に。

自分が相手のどういう所に納得がいかず買わなかったのか、自分だったらどういう風に売り込むのか意識すること。

 

ただ買って終わりじゃない。

ただ断って終わりじゃない。

 

お金が動くタイミングに何を考えるかが、人生を豊かにするか、貧しくするかを分けるのではないだろうか。

 

わっしょい。

叫び散らかしたい人生だった

叫び散らかしたい。

そんなことを最近よく考える。

朝目が覚めたら全力で叫び、そのままの勢いで家を飛び出て、叫びながら近所を駆け抜けたい。知らない人がいたら怖がられるぐらい全力で挨拶をし、すれ違う人全員を驚かせたい。

きっと楽しいだろう。

 

会社になんか行くもんか。

毎日毎日、その日の気の向くままに行動をする。

ひたすらブログ記事を書いて、セミナーをして、会いたい人に会って、そして叫び散らかす。公園で遊んでいる子供がいるなら一緒に全力でキャッチボールをする。暇そうにしている老人がいるなら老人の体力が尽き果てるまで会話をする。ランニングをしているお兄さんがいるなら短距離走を挑んで全力で競争する。綺麗なお姉さんがいたら即座に声を掛け、ご飯に誘う。コンビニの店員さんの鼓膜が破れるくらい大きな声でありがとうと言うし、道を譲るときはどうぞと言って気持ち悪いぐらいのスマイルを見せる。スマートさなんていらない。気取った態度なんて必要ない。

ただただ全力で叫び倒したい。全力で生きていきたい。

例え他人にうるさいと言われても、叫びたい。

自身の内から溢れ出るエネルギーが尽きるまで叫びたい。

 

そんな衝動に駆られる夜の23時。

しかし実際の所、今叫ぼうものなら近所迷惑になるだろう。

見知らぬ子どもに声を掛けたって通報されるかもしれないし、老人に話しかけても退屈な話で終わるかもしれない。走っているお兄さんには無視されるかもしれないし、綺麗なお姉さんには見向きもされないかもしれない。

コンビニ店員を怖がらせてしまうかもしれないし、気持ち悪いぐらいのスマイルのせいで相手が引いてしまうかもしれない。

けど、それでも、全力で生きたい。

全力で叫びたい。

 

そんな気持ち。

本気を出す為に必要なのは知識?そもそも本気を出す必要はあるの?

自分の達成したい目標に向かって、本気で取り組む自分になりたい、と普段よく考える。

ふとした瞬間にYoutubeを見たり、漫画を読んだりしてしまう自分に違和感をを覚えるからだ。

恐らくこの違和感の正体は、「自分の達成したい目標に関係のない時間を過ごしていること」だと思う。

「目標があるのに、そんな事やってていいの?」

という自問がいつも自分を責め、その度に

「もっと本気になりたい」

「何故自分はこんなに甘いんだ」

「このままじゃ駄目だ」

という自責に苛まれ、自分の行動に違和感が生まれる。

しかし、この違和感も数日すれば薄れ、また同じ事を繰り返してしまう。

変われない自分のまま時間だけが過ぎていく。何故だ。

 

 

思うに人が本気になれない理由というのは、覚悟だとか、根性だとか、気合だとか、マインドだとかそういうものが足りないからじゃなく、本気になる為の知識が足りないからなのでは?と思う。

 

知識というのは、本気になるための自分のスイッチを押す方法だったり、そもそも自分の本気というものが存在するのか理解していることだったり、本気になることに再現性を持たせるかどうか見切りを付けることだったり、を指す。

 

そういった知識が足りないせいで、本気になれない状態に至るのかなぁと考えた。

しかしそんなことを一人でもんもんと考えていても仕方がない。

 

という訳で、「本気になる為に」というワードで検索し、上位20ページぐらいに目を通して、本気を出すために何が必要なのかを調べてみた。

色々な主張の記事があり、抽象的でよく分からないものから、具体的で明確なものまでさまざまであった。

まずはメモしたものを列挙する。

 

・本気さやモチベーションは行動の原因ではない

長時間労働や疲労感があるからと言って本気とは言えない

・そもそも行動の有無に本気かどうかは関係ない

・本気じゃないと感じるのは目標が高すぎるから

・大切なのは行動を続ける工夫

・目標設定の際に、成果目標よりも行動目標を大事にする

・自分が本気だと思える基準の行動目標を立てる

・危機感を持つ

・本気を出して得られる結果をイメージする

・思考だけじゃなく、心も本気にさせる

・自分の目標を書き出して見える化、言葉に出して自己確認

・意識だけ変えるのは無意味(すぐ忘れちゃうので)

・環境を変える

・必要な時間配分以外は切り捨てる

・本気を出そうと思っている限り、本気は出せない

・自分で自分にちょっと高い厳しい目標を課す

・やる気が出る方法ではなく、思わずやる気がでちゃう方法を考えないといけない

・やる気を出さなきゃ死ぬ環境を作ると本気になれる

・無心になる

 

 

抽象的なものが多いが、中でも参考になった物は、

・本気さやモチベーションは行動の原因ではない

・目標設定の際に、成果目標よりも行動目標を大事にする

・本気を出そうと思っている限り、本気は出せない

・自分で自分にちょっと高い厳しい目標を課す

・大切なのは行動を続ける工夫

辺りだ。

 

人はどうやら、結果を見てから

「自分は本気じゃなかったんだな・・・」

「自分は本気だったんだ!」

と後付けする傾向が強いようだ。

しかし本気だったかどうかは結果とは関係なく、運も絡んでるため、

結果が出ていない=本気度が足りない

と考えるのは短絡的なようだ。

寧ろ、本気だったかどうかはどうでもよくて、ちゃんと目標に向けて行動を継続できたかどうかが重要らしい。

だから、目標を達成するためには「本気の出し方」を考えるのではなく、「行動を継続するための方法」を考えるのが正しいようだ。

 

「本気をどうやったら出せるのか」

ということを考えるのが、いかに的外れな考え方であったか、思い知る良い機会となった。

本気を出したか、本気だったかなんて、あとで会話で出てくるおまけみたいなもの。

普通は気にしなくてよい問題のようだ。

 

 

行動を継続する為に大事なこととして、成果目標ではなく行動目標を立てるべきである、という主張がとても印象に残っている。

成果目標は、ベストを尽くしても達成できるかどうかは分からないが、

行動目標は、設定した分行動をすれば達成できる目標である。

 

行動目標を達成する上で重要なのが、行動を継続するための工夫。

行動を維持する為には、分かりやすく、確実な変化が伴うようにすると良い。

例えば、行動の記録を可視化したり、行動をブログやSNSで宣言、アウトプットすることで反応を狙う等をし、ポジティブな変化を実感することなどが挙げられる。

 

そうすることで継続を促し、それによって行動目標を達成できたときに、「ベストを尽くすことができた」という実感を得ることができる。

そこで得られた「本気になれた実感」というのが、この「本気を出せていない感」を解消してくれるのではないだろうか。

 

終わり

 

何か適当に生きてたら人生ヤバイ感じになっていた件

「あー、なんかやる気でないわー」

「もう少しだけ寝ようかなー」

「レポート終わってないけど、明日の朝やれば大丈夫っしょー」

「テスト勉強は前夜にやればいいか」

「ソシャゲのイベントがあるから仕方ない」

 

思えば中学の頃から怠惰の兆候はあった。

それが高校、大学と進級進学するにつれて、顕著になっていった。

やるべきことを放っておいて一日中ゲーム、就活で第一希望企業の最終面接前日にアニメを見るという現実逃避(当然落ちた)、大学のレポート締め切り日の朝に友達に泣きつく、テスト勉強しないで単位を落とす、etc....

 

設定された期限を破るのは当たり前。

重要なイベントの前日に下準備をしないのが当たり前。

 今客観的に振り返ってみると、酷い有様だ。

 

 それでも当時の俺は言い訳をして、怠惰な自分をしょうがないとすら思っていた。 

それどころか、アホ程ポジティブだった。

いつも酷い状況に落ち込んでも、

 

「生きてるだけマシだろ」

 

なんて言葉を自分に言い聞かせると、不思議と元気が出た。

第一志望の企業の面接に落ちても、重要な単位を落としても、10万円の支援金を受け取り損ねても、奨学金返済が600万円もあるのに就職先が派遣会社でも、その言葉の前では全て些細なことだった。

 

 

 

がしかし、最近はそんな呑気な事も言ってられなくなった。

なぜなら今の自分を客観的に言い表してみると、

「突出したスキルのない23歳男性、借金600万円(奨学金含む)の、派遣社員。」

という、

 

ド底辺やんけwwww

と言いたくなるようなプロフィールだからだ。

流石に危機感が湧く。

 

正直別に何とかなる気もするけど、流石にこのままじゃ将来豊かな生活は出来ないだろう(正直、この何とかなるだろう思考がよろしくない)。

 派遣という雇用形態上、給料は低い。昇給にも期待できない。

いよいよ本気で生きてこなかったツケが回ってきたようだ。

適当に流されながら生きてきた代償は大きい。

 

 

 

 

 成功者は語る。

「何か目の前の事一生懸命やってたら人生ええ感じになってたわ」と。

 

俺は語る。

「何か適当に生きてたら人生ヤバイ感じになってたわ」と。

 

 

うん。

もっと本気で生きよう。

 

 

二度寝しすぎて困っている怠惰な奴の戯言

二度寝がやめられない。

 

 社会人になってから早3カ月。

 

社会人に成り立ての頃は何が何でも遅刻しないよう、必ず家を出る1時間前には起きていた。

6:50には起き、7:45には家を出る。

ゆっくりホットコーヒーを飲んでから、軽く本を読み、シャワーを浴びてもまだ時間が余る。

思い返せば、入社当時は落ち着いたエレガントな朝を過ごしていた。

 

 

 

だが今はどうだろう。

目覚ましで7時に目が覚める。

がしかし、当たり前のように二度寝

必要最低限の準備が間に合う、ギリギリの時間まで寝続ける。

結局7:40分まで惰眠を貪り、焦りながら準備して7:55に家を出る。

 

「あやべ、昨日洗濯したやつ干してねぇ!」

プロテインをシェイクする時間もねぇな、」

「日焼け止め塗る時間は・・・ないっ!」

「あークソ寝癖が直らん!!けど出るしかねぇ!!」

 

全ての行動に余裕がない。

 

自転車をかっ飛ばして職場に向かい、汗だくでデスクに滑り込む。

と同時に鳴る始業のベル。

「あぶねぇ、セーフ」

 

それが日常と化してしまった。

 

・・・

 

なんだこれ。

普通に辛いし、危険やん。

俺は一体何をやっているんだ。

何故毎朝アスリートのように通勤路でタイムトライアルをしているのだ。

別に、自宅⇔職場間の最速タイム更新を目指している訳ではない。

 

俺はこんな落ち着きのない朝より、ゆったりと落ち着いた朝を過ごしたい。

 

なのに何故こんなにも余裕がないのだろう。

何故2度寝が止められないのだろう。

何故毎朝汗だくにならないといけないのだろう。

どうして。

 

そんなことを考えているといつも

「なぜ俺は2度寝をしてしまうんだ」

という思考を巡らせてしまう。

何となく原因らしきものは見つかるが、結局2度寝はやめられない。

 

 

そう、原因探しなんてしても無駄なのだ。

原因のせいで行動できないという思考は、堂々巡りするだけだ。

原因はこれ、じゃぁそれの原因はそれで、さらにそれの原因は・・・・

きっと、こじ付けだけが増える。

 

俺が二度寝してしまうのは、睡眠不足だから?布団が気持ち良いから?習慣が体に染みついているから?本当は別に朝ギリギリでも良いと思っているから?昨日オナニーしたから?瞼が乾燥して目が開かないのを眠いと勘違いしているから?体のコントロールが効かなくなっているから?スヌーズ機能のせいで気が緩んでしまうから?・・・

 

実に不毛である。

 

こういう時は「嫌われる勇気」にも書いてあった、目的論を思いだす。

自分の行動に原因はなく、そこには目的しかない。

自分には二度寝をすることで達成できる目的があるのだと。

 

・・・

 

あれ、なんか目的論も怪しい。

二度寝をする目的なんて、普通思いつかないやん。

二度寝をする目的なんて分からない。

 

原因論でも、目的論でも、人間の行動の理由目的を論理立てて説明することは難しい。

原因論も目的論も、所詮は思考のフレームワークの一つでしかない。

 

これが正解だ!と思っても、それは納得感があるだけで、正解であるという客観的な指標はない。

いかに納得感のある結論を出せるか、が重要なのかもしれない。

 

ふと思ったのは、この手の

「2度寝がやめられない」

という悩みを解決するヒントは、再現性にあると思う。

もしかしたら、人々が二度寝をしてしまう可能性が最も高い環境、というものがあるのではないか。

 

心理学だって、何かしらの統計に基づいて人間の行動に再現性を見出したり、法則性を発見しているではないか。

多くの人はどういう条件下で二度寝をしてしまうのか、情報を収集すればよいのではないか?

 

・・・・

 

たかが2度寝を止めたいという悩みから、どうしてこうも思考を巡らせてしまうのか。

でも考えてみる価値はあると思う。

 

 

どうすれば二度寝できるかを考えてみる

どうすれば俺は2度寝ができるのか。

 

・目が覚めても、布団からでない。

スヌーズ機能で、2度寝しても大丈夫なように保険を掛ける

・一度目を開けても、再度目を閉じる

・寝れるギリギリの時間を把握する

・最悪遅刻しても大丈夫と考える

・2度寝しなかった時のメリットを無視する

・2度寝しなかった時のデメリットを考える

・2度寝した時のデメリットを無視する

・2度寝した時のメリットを考える

・欲望に忠実になる

二度寝は体に良いものだと思い込む

・睡眠時間を削る

・朝のタスクを前日の決めておかない

・早起きの目的を決めない

 

ぱっと思いつくものでもこんな感じ。

これの逆を実行すれば二度寝しなくなるんじゃないか?

 

・目が覚めたら布団から出る

・2度寝したらアウトな状況を作り出す(スヌーズは禁止)

・一度目を開けたら、瞬き以外で目を閉じない

・寝れるギリギリを忘れる

・遅刻したら大変だと考える

・2度寝しなかった時のメリットを考える

・2度寝しなかった時のデメリットを無視する

・2度寝した時のデメリットを考える

・2度寝した時のメリットを無視する

・欲望を抑える

二度寝は体に悪いものだと思いこむ

・睡眠時間を増やす

・朝のタスクを前日の夜に決める

・早起きの目的を決める

 

中々に良いアイデアではないだろうか。

恐らく全部実行できたら、まず二度寝はしないだろう。

当たり前だけど。

 

こんな程度でも、二度寝をしない方法について考えてみると結構思いつく。

 

結局、できる⇔できない

という認識は個人が勝手に作りだしているものだとも思う。

基本的に1度出来たことは、何度でもできるはずだからだ。

 

「眼を開けない!」

「布団から体を動かさない!!」

という、動かない選択もでき、

 

「眼の瞬きは任意のタイミングでできる!」

「布団から自由に出れる!」

という、動く選択もできる。

 

 行動できる⇔行動できない

の間に、隔てているものはなに一つない。

指を動かすのに何の苦労もしないのだ。

眼を開け続けることだって、体を起き上がらせることだって苦労しないだろう。

 

それでも隔たりを感じるなら、それは個人で作りだしているメンタルブロックだとか、障害だとか、理想だとか、プライドだとか、そんなものが影響しているように思う。

しらんけど。

 

それとも脳が指令を出すときは、同じシチュエーションにおいて、なるべく同じ指令を踏襲する特性でもあるのだろうか。うーむ。

 

二度寝をやめるのは余裕だけど、二度寝をやめることを継続するのが難しい。

 

とりあえず枕元に紙を置いて、寝起き後すぐの頭の中を紙に書きだしてみようと思う。

二度寝撲滅のヒントになるかもしれない。

 

因みに2度寝を防止したら、毎朝読書がしたい。

ティッシュ箱

 

 

 

今、目の前にティッシュ箱がある。

何の変哲もないティッシュ箱。

ティッシュが生えている所以外の面全てに「Klllnex」という印字が英字でされている。

多分メーカーの名前だろう。

数日前ににマツモトキヨシで一番安いという理由で買い物カゴにぶち込んだティッシュだったから、名前なんて気にしていなかった(レシート探したら299円だった。本当に一番安いティッシュを選んだのか自分でも怪しくなっている)。

その下にはカタカナでクリネックスと記されている。

カタカナがなかったら、きっと俺は読めなかっただろう。

自分が読めていると思っているものはもしかして読まされているだけなのかもしれない。

 

よく見ると「Klllnex」の隣に小さくBRANDという文字と、Rが〇でくくられた記号らしきものが記されている。

まとめて読むとクリネックスブランド(まるアール?アールまる?)。

このブログという媒体で読めない物を表現するのは非常に難しい。

クリネックスというカタカナの下にも、小さく英字が印字されている。

「HIGH QUALITY FACIAL TISSUES」

ハイ クオリティ フェイシャル ティッシーズ?

いつも英語を読むときは発音が合っているのか分からないのでモヤモヤする。

中高大の俺は何をしていたんだ。英語に触れる機会が10年もあったというのに。

 

さらにさらに、同様の印字が面の右下にかなり小さく記されている。

同じ面に同じ事を2回も書くとは。主張が激しい会社だ。

しかし面白いことに、くどさを感じさせない。

大きく書かれているクリネックスは青字。

小さく書かれている方は白字である。

この色の違い、そして文字の大きさの違いが、くどさを感じさせないのだろうか。

 

言い忘れていたけども、箱は白色を基調としていて、明度にバラつきのある青系の色の線や波模様がコントラストになっている。

箱の側面である4つの面には、底から1cmが濃い青色に塗られている。

さらにその上に1mmぐらいの水色が乗っている。

白色と濃い青色の境界にこの色を配色した理由は何だろうか。

デザイナーの気まぐれ?それとも色で境界を分けることで何か効果がある?

心なしか小さくて白色のクリネックスの印字が目立っているように感じる。

気のせいかもしれないが。

 

とか考えながら箱を回してみるとどうやら短い方の面は水色と濃い青が基調の色になっていた。クリネックス印字は両方とも白色である。

ちゃんと白が引き立つように配色が施されているんだなぁと感心する。

ティッシュ箱の短い方の面にはおなじみの、箱をつぶす際に分解しやすいようにするためのミシン目が刻まれている。その下には「↑」矢印と「使用後、↑の上部を指で押して外側に広げてください。」と書いてある。

因みに俺はティッシュを使い終わった後、そのミシン目に親指を突っ込むのが密かな楽しみである。ぶちぶちと千切れるあの独特な感触と音は、爽快感すら感じさせる。

というのはどうでもいい。

切り取り線付近に謎の数字が振ってある。

「29048265」

何だこれは。製造番号か何かだろうか。

世の中のありとあらゆる商品には得体のしれない数字が沢山振ってある。

 

小学生の頃、給食で出たヨーグルトの底面にも、謎の「4」とか「1」とか「2」とかの数字が書いてあった(その数字の値が大きい奴が「お前何番?え4番?俺は1番!いえぇぇい勝ったぁ~!」という謎のマウンティングを取ってきていたことを思い出した)。

 

左下の方には「360枚(180組)」と分かりやすくティッシュの枚数が書かれている。

いつも残り枚数なんて気にせずに使っているので、知ってもあまり意味はないが。

 

 

無造作なしわしわが集まって不自然な形を保っているティッシュが一枚だけ箱から出ている。

一枚とってみる。

新しいティッシュが釣られて生えてきた。

そしてそれが不自然な形を保って、飛び出たままになる。

この形を固定しているのは、ティッシュの取り出し部についたプラスチックのビニールのような素材だ。このビニールのすごい所は、ティッシュ千切れさせることなく取り出せるようにしていること、飛び出たティッシュを垂直方向に保とうとする機能があることだ。

ティッシュをとっても次のティッシュが生えてくる構造、ティッシュを取りやすくするビニール。

最初にこの構造を考えた人は本当にすごいと思う。

というより、さまざまな試行錯誤があって現在のティッシュになっているのだろう。

先人たちがきっと何百時間もかけて開発したんだろう。

それを俺がたったの299円で使用できるのは、控えめに言って最高の時代に生まれたと思う。

 

ティッシュ箱を裏返してみる。

普段はあまり見ることのないティッシュ箱の裏側。

意外にいろいろな事が書いてある。

クリネックスのロゴ、「ふれるたび、あなたにいいこと」というフレーズ、使用後のリサイクル方法、クリネックスが開発したトイレットペーパーの宣伝、壁に引っ掛けるための穴をあける「push」と書かれた箇所、壁に掛ける為の別売り商品「マグネットバーくっつくん」を購入する画面に飛べるQRコード、「マグネッバーくっつくん」の使用上の注意、寸法(たて188mm×よこ228mm)、日本製のロゴ、「日本製紙グループ日本製紙クレシア株式会社」という会社名とその住所、お客様相談係の電話番号とその受付時間、登録商標のソース、、、

 

情報量が思いのほか多かった。

もし自分がティッシュ箱を見ずに、「ティッシュ箱の裏面に書かれていること言ってみろ」と言われたら、間違いなく全部は答えられないどころかほとんど答えられないだろう。

 

 

 

 

こんなに身近で、毎日のように使っているティッシュでも、すごい工夫や、分からない情報がたくさん詰め込まれている。

そういえばなんでティッシュは四角何だろうか。

ティッシュの素材って何だ。ティッシュ箱の素材って何だ。ビニール素材の原料ってなんだ、箱への印字はどうやっているんだ、ミシン目はどうやって入れるんだ、それぞれどういう製法で作っているだ、、、

 

 

圧倒的に知らないことだらけだ。

たまにこういうこと考えるの楽しいかも。

 

 

終わり

(所要時間140分)

 

アウトプット不足を補う為に書いた記事。

なっす(おっす的な

 

気が付つけばブログの更新が止まってから、およそ半月が経過した。

 

ブログを書くのが地味に好きで、毎週に1回ぐらいは投稿していたのに、半月も休んでしまっていた。

 

休んでいる間に、ストナンをして女の子のLINEをゲットしたり、仕事の飲み会に参加して退屈な想いをしたり、家の鍵をなくして深夜の東京を徘徊する羽目になったり、大学生オンラインサロンのオフ会に参加したり、、、

 

ブログを書くのに困らない程度のネタはあった。

しかし自分はブログを書かなかった。

 

今思うに、

「これをブログに書こう!」

という意識が完全に欠如していたように感じる。

 

仕事して、飯を食って、糞をして、寝る、ただただそんな生活を繰り返していた。

 

朝7:30に目が覚め、準備をして7:50ぐらいに家を出る。

仕事が終わって帰宅し、17:30。

1:00には寝る必要があるので、7時間半も時間が余る。

 

そんな毎日だったのに、自宅にいる時間で何をしたかと言えば、ツイッターを見て、家事をして、ジムに行った程度のことしか記憶に残っていない。

 

何かを生み出した記憶がまるでない。

ぱっと思い付きのツイートを1日に数回する程度。

まとまったアウトプットが何一つなかった。

 

唯一まともにアウトプットしていた物と言えば、うんこくらいだった。

 

 

多分だけども、ブログを書くことに意味を見出せなくなっているのだと思う。

 

このブログでは基本的に雑記しか投稿しないので、役立ち情報を得るために開く読者は恐らくいない。

一度読んでみて「ふーん」となるか、そもそも読まれないかの二択だ。

まぁそんなことを言っているなら、雑記ではなく何か一つのテーマに絞って記事を書いたらどうなんだという話だが・・・。

しかし自分にしか書けない記事を書きたいという気持ちが高すぎて、自分の満足を優先した記事を書きがちである。

よく言えば、自分のブログが好きで、好きなことを書いている。

悪く言えば、読者を想定していない。

まるで徒然草のようだ(なんかカッコつけたい

 

という訳で、自己満ブログを書き続けても、ちゃんと読者を想定して戦略を立てないと落書を散らかしてるだけじゃね?という考えに至り、アウトプットにブレーキがかかっていたのかもしれない。

 

そして、戦略を立てるの面倒臭くね?という気持ちのせいで、ブログに力を入れようという発想が削がれていたのだと思う。

 

ブログを書くなら戦略立てないと意味ない

戦略立てるのめんどい

ブログを書かない

 

って感じ。

 

 

でも、ここまで書いていて思うのは、やっぱり何の内容でもいいからアウトプットがしたい、ということ。

アウトプット旨味というのは、他人からのフィードバックや、他人への価値提供ができる所に焦点を置かれがちだが、別にそれだけじゃない。

 

アウトプットは自分だけのライブラリになる。

このブログでも67記事ぐらい書いたが、読み返すと、

「この時の俺はこんなことを考えていたのか」

と当時の自分の気持ちや状況が、昨日の事のように思い出される。

 

まるで卒アルを眺めている気分だ。

ワクワクする。

怠惰撲滅奮闘記①とかも、今読み返しても凄い雑文で、所々何を言っているか分からないところも多いけど、自分の中ではエネルギーがとても乗った記事だと思う。

まぁこの記事を書いた時と今の自分の状況にあまり差がないけども。

 

中には

「あれ今の俺、これを書いた時より退化してね?」

という気持ちにさせられる記事もあり、たまに悲しくなる。

 

 

まぁそんな感じで、例えターゲットを決めずにアウトプットをしても、自分を振り返るための良いツールとしては使えると思う。もはやただの日記だけども。

 

当然ながら誰かに価値提供する為に書く記事の方が、より存在意義があるように思う。

 

しかし、日記書いてあわよくば他人の反応が貰えるって考えると、あながち自分本位のアウトプットも捨てたもんじゃないのかもね。

 

 

おわり

 

(所要時間:92分)